【現在】うつ病者がゆゆうたのお陰で内心の自由を得た話
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【現在】表記のタイトルの記事は、
昔うつ病、引きこもりニート、毒親家庭のサンドバッグ役だった筆者が
【現在思う事】です。
不調のさなかにいらっしゃる方は、決して無理のない範囲でごらんください。
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私が思う「一番てっとり早く鬱になれる方法」は、
心の中で「こんな事考える自分はダメ」と、
内心を束縛する事だ。
「こんな事、考えちゃダメ。負の感情を抱いちゃダメ。
そんなの良くない。
だから他人に怒ったり、恨んだりしても、嫉妬してもダメ。
負けを認めて悔しくなるのもダメ。
でも、勝って人を見下すのもダメ。
驕り高ぶるとダメ。人の不幸を喜んだり、笑うべきじゃないとこで笑うのもダメ。
でも嬉しい時、嬉しくあるべき時には、笑えないとダメ。
優しい笑顔を見せていないとダメ。明るく健康な人じゃなきゃダメ。
あれ、私ってどういう人間だったっけ?
でも迷っちゃダメ。悩んじゃダメ。」
こんな事していると、やがて最短距離でメンヘラに到達するのは
感覚で分かってもらえると思う。
思い、考え、感じる事を肯定できなくなったら、
心を持つ生き物である人間は心から死んでいくのだ。
心の自由を奪われると、人は何者かに操られる泥人形か、
自分の意思や意欲のもとで動けない泥人形のいずれかになるしかない。
筆者は、ガチガチの束縛状態と
緩めたリラックスの状態を両方味わった後、今現在だからそう分かるのだが、
束縛状態にあると、自分の置かれた世界がどんどん狭まっていることにも気付けなかった。
自分がその時、苦しいと感じていることにすら。
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「ゆゆうた」という日本人男性がいる。
彼のことをご存知ない方々のために、勝手ながら紹介させて頂くと、
稀有なピアノ技術と音感、優れた作曲編曲・即興演奏のスキルを武器に活躍されている、
大人気の音楽系Youtuberだ。
彼の本領は、「才能の無駄遣い」と、彼を知る人ほぼ全員が声を揃えて言うだろう、
その創造的かつ破壊的な作品群である。
創りながら(※主に彼自身の社会的地位を)壊すアンビバレンス。
でも人柄は真面目。優しさや誠実さ、知性がにじみ出る言葉選び。
でも大体やってる事がアホくさすぎて、驚き呆れながらも親しむ事しか出来ない。
自らゴミ箱に突っ込んでいくスタイル。うんこの擬人化(自称)。
なのにすごいピアノ上手い。段々歌まで上手くなってきている。
動画を見ないと、彼のことは到底分かってもらえないだろうから、
気が向いたら最下部のリンクから見て欲しい。
そして私が初めて見た彼の動画は、いわゆると言うか、
深い知識を有する視聴者の間で「OMMC」という隠語で呼称される曲の動画だった。
「おっぱい●んこ●んこ(女性器)○んこ(男性器)~♪」と歌っている動画だ。
(※現在は諸般の事情で、この曲に関する動画は当人のチャンネル上においては削除されている)
その時私は「ワハハおもしろいな~素敵なメロディとすごい歌詞~
あとコメント的確ゥ~^」と思って
動画を閉じた、ような気がする。
でも、後になってじわじわと、
疑問というか、不思議な感じが湧き上がってきたのを覚えている。
「私は心の中ですら、女性器の名前も、男性器の名前もうまく言えない」
ということに気付いていったのだ。
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私がYoutubeという動画投稿サービスを楽しめるようになったのは、
割と最近のことだ。
もっともひどい鬱状態に陥ってから、3年ほど経った頃かと思う。
サイコセラピーを重ねて、外出も出来るようになった頃だった。たぶん。
まだあまり積極的に楽しみが見出せない生活で、
でも私だって笑いたいなとか、楽しみたいなと思い、笑えそうな動画を探してワハハと言えていたから、そのくらいの回復を遂げていた時期。
心の中の状態は、たぶん↓くらいの緊縛度。
「Youtubeはいいな、スマホはたのしいな。別に楽しんで良いんだよな。もう私が楽しんで笑ってたりすると舌打ちしてくる親とは別居したしホッとするな。
怒っても泣いても、もう大丈夫。
なのに、なんだか、楽しく生きたいけどまだそれを許しきれない」
という感じ。まだまだ束縛は強かったし、
自分の本音がいくつもある事と、
それらが葛藤することに、少し過剰なくらいに悩んでいた。
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ゆゆうたの動画を見て、私は
「心の中ですら、自由になれない時には
汚い言葉やネガティブな表現も、卑猥な単語も言えないのだ」と気付いた。
●んこ(女性器)、○んこ(男性器)、
そのいずれも、心の中で歌おうとすると「~んこ」「~んこ」といったように、
モヤが掛かったようにしか、歌えなかったのだ。
「おっぱい」は歌えるのに。
「おっぱい」がすんなり歌えていた理由については、推測なのだが、
幼少期に親しんだ童謡のせいだろうと結論を出している。
「げんこつ山のたぬきさん♪おっぱい飲んで寝んねして~♪」のアレだ。
NHKでもワンチャン流せそうな、美しい母性を連想させる言葉だからだ。
でも●んこ(女性器)○んこ(男性器)となると次元が違う。
NHKから一転、PornhubやXVideos、FC2やFANZAでないと聞けないオトナの危険ワードへ転落する。
個人的にはアダルトものに関しては、18歳以下の頃からぞんぶんに楽しんで見ていた。
なのでそんな人体の一部の名称、今更恥じらう事もない筈だった。たかが三文字だ。
なのに歌えなかった。
ゆゆうたが気持ちよさそうにOMMCを歌っている様子なら、
心の中の映像記憶と音声記憶でリフレインできるのだが、
自分が心の中で歌おうとすると、どうしても出来ない。
だからいっそ、口に出してしまえと思ったのだろう。
一人暮らしの我が城で、家の中で、ついに私はリアル歌ってみたのだ。
「おっぱい、~~~~~~~~~~♪」
と、超小声でやってみた。
その記憶にも今ではもやが掛かっている。
~~~~の部分はモヤだ。
途中で「ウフォッwww」となりそうになった気がする。
歌った後、どうしたかはもう思い出せない。
けれど変化は、きっとゆっくり、
自分自身でも分からないように起きていたのだろう。
静かで凪いだようにも見える微かな波が浜へ寄せ、失われた小さな宝物を
再び陸へ打ち上げるが如くだったのかもしれない。
「こんな事考えちゃダメ。言うなんてもっとダメ。そんな自分はダメ」
と、私を縛っていた縄は、代わりに波に攫われていったようだ。
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『思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。』
これは、日本国憲法第19条の引用である。
日本人に保障されている自由な精神活動の、「思想及び良心」の解釈については
信教、表現、それぞれの分野において議論がなされているらしいが、
私が考える、心の中における自由とは、そんなかたっ苦しいもんじゃなく
「何こいつ」とムカついたらムカッと出来ること、
「ウケる」と笑ったら笑えること。
「こんな事考える自分はダメだ…」と、もう縛らなくていいこと。
ちょっと憲法からは拡大解釈させてもらうことになるかも知らんが、
心の中でなら、●●を●しても良いし
●●●を●●しても良い。と、思うのだ。
あらゆる規範やモラルやリテラシーをかなぐり捨て、
あらゆる欲求や願望や煩悩に従い、クッソしょーもない事をしても、
そのフィールドが己の精神世界である限り、どんな外的環境に苛まれていようとも、
人は真の自由を失わない。
今では、私はすっきりと、
「あの上司ムカつくよなマジで、さっさと●●して
●●●って●●●さらせハゲ」とか、
「○んこ〜♪」などと、心の中でスラスラと思えるのだ。
「あ〜〜●●してぇ地球滅べ」と、地獄のように落ち込む日もあるが、
「ハゲとか思っちゃダメ。落ち込んじゃダメ」と、自責の念でガチガチにならなくてもよくなった。
絶望できることも、私を気楽にさせた。
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今日、なぜこのブログを書くに至ったのかは、自分でも分からんし
どういう私の心のカオスがもたらした文章かも、心というネイチャーのやる事なので知るよしもないが、
私は、その時まですっかり忘れていて、ただなんとなく思い出しただけのことを、
「思い出との再会」なんて表現したくなる事があるのだ。
自由にしてくれた人の思い出と再会できると、良かったと思う。いきててよかった。
「自由になりたい」と、今日生きている誰しもが、
言葉にこそ出来ずとも求めているのではないだろうか。
そんなとき、「誰だって自由になれる」と教えてくれるのは、
経典の文字であったり、指導者の言葉であったり、
古聖賢の歌であったりと様々だろう。
私にとっては、それはたくさんの人のいろんな言葉を少しずつ受け止めた結果、
出来上がった集積だったように感じられる。
そのたくさんの人のうち一人が、
そして大きい役目を果たしてくれた人が、
事故的な出来事であったにしろ、ゆゆうたさんであった事は間違いないと思うのだ。
今試しにすごい小声でOMMCを声に出して歌ってみたら、やっぱり噴き出しそうになった。
昔の日本人は卑猥な浮世絵や本やらを「ワ印」=笑い絵のワ、猥のワ
と呼んだらしいが、深く共感する。どうやったって笑ってしまうからだ。
たぶん、初めて自分一人で、自分のために「歌を歌った」のはあの時だったし、
今、自分の歌に自分でバカバカしすぎて単純に笑えるのは、
ほんの些細なあの出来事が、私の人生を狂わせた作用点として、
同時に出発点として、在り続けてくれるからだ。
笑ったことを、
「笑って良いんだ」と、
安心して思えるようになったきっかけの一つが、割とマジできっとあの日だった。
当時歌った後、もう思い出せないけど、
あの時の私も笑ってたんじゃないかなと思う。
ゆゆうたさん、ありがとう。
私を自由にしてくれてありがとう。
クッソくだらないようで、真面目に書いてみました。
心の檻を破壊するお話。
実は束縛多いネットの楽しみ方の中でも、
自分を解放するという方向へエネルギーを働かせられれば、いいなあと思うのです。